2006年12月4日
受験生の母からの卒業はかないませんでした。来春まで寒い冬を耐えたいと思います。
さて、書類仕事の期限がどんどん迫ってきて、追いつめられると編み物をしていました。一晩でできるのが帽子やネックウォーマーです。今シーズンは赤ちゃん用のベストを二つ仕上げました。もちろん一番身近の赤ちゃんとは塾ののりとくんジュニアです。大きさを見るために一度試作品を編みました。編み上がってハンガーにかけるとあまりの可愛さに娘と「わ~、小さい~可愛い~」と興奮していました。試作品を手直ししてそれも差し上げて、本番の編み込みベストに挑戦しました。私は洋裁材料店のボタンコーナーでくまさんのボタンを見つけ、そのイメージからくまさんの編み込みをしようとしていました。製図を書いて編み込もうと試みましたが、どうもうまくいきません。くまが猫に見えたり、気持ち悪いものができるのです。そこで諦めて、イニシャルを編み込むことにしました。先日めでたく、ベストを編み上げたので今はまた小物たちを夜な夜な編んでいます。
娘の進路で気持ちが揺れるとき、編み物が私の心を救ってくれている毎日です。記録しているものだけ今シーズンものを紹介します。
2006年11月8日
10月は受験生にとって、戸惑う月です。たくさんの大学受験生を見ていて、10月の過ごし方がポイントになるなと思っていました。夏休みを過ぎ、勉強のペースも順調に出来てきた頃なのに、10月になってよく進路を変更する子がいるのです。ちょっとした迷いが沸いてくる時期なのでしょう。進路変更は大学や学部だったり、大学から専門学校だったり、いろいろです。ちょうど指定校推薦の話が決まる頃でもあるからでしょうか?
私は10月に大きな進路変更をすることを勧めません。春から考えて、動いてやってきたことを10月になって、ちょっとした不安や迷いで誤らせたくないからです。この時期には、春から積み上げてきたことを大切にして欲しいと思うのです。しかし、受験生はこの時期「楽になりたい」という悪魔のささやきについ耳を傾けてしまうのです。気持ちはすごく分かります。『このままいくと自分の希望が叶うのか・・・・・・。努力しても駄目なら、するだけ無駄・・・。どうせ自分はこれ以上のびない・・・。今の考えはずいぶん大それているのじゃないか・・・。』悪魔のささやきはあの手この手でやってきます。
私はそういう受験生に春に考えたことを再確認します。そして、希望がかなったいいイメージで話をすすめ、最後に「年が明けてから、決定しよう。それまではとにかく計画続行。」と提案します。提案を受け入れ、年明けまで計画続行した受験生は初志貫徹します。
我が家の受験生の心中はわかりません。もちろん春から考えていることを続行していますが、「戸惑いの10月」を健やかに過ごしたのでしょうか?
先週、新聞を騒がせた「履修不足問題」。校長先生が自殺し、政府の50時間補習で折り合いをつけ、一応決着しました。評定平均ぎりぎりで推薦受験基準をやっとクリアした娘ですが、彼女の学校は規定通り履修の高校です。その高校の数値と、履修をやりくりした受験校の数値との公平性は疑わしいものです。受験生にとって今年の10月は「戸惑い」+不公平な不愉快な時期でもありました。マスコミで「履修不足の受験生が一番の被害者」とコメントしていました。どのテレビ局もその論調です。本当にそうでしょうか?ルールを守っている側の受験生の利益は損なっていないのでしょうか?
この問題は「ゆとり教育」を推奨していた初等中等教育の果てには従来どおりの東大を頂点とする大学受験状況が依然として存在していたと世間に知らしめた効用はありました。今も昔も「いい高校」の基準は難関大学に合格者を出せるかということだったのです。そう考えて多くの都立高校を見ると、3年間をバイトに明け暮れ、その競争からとっくに降りてしまった高校生の多いこと・・・。予備校化した高校、バイト三昧の3年間・・・・、どれも違うな、と思います。長い人生の中で、体力的にも脳のはたらきでも最高の時期に、そんな風に3年間を過ごすのがもったいないです。もちろん、答は1つではありませんが、私にとって高校時代とは「世の中を知り、どういう風にかかわっていこうかと考え、今の自分の原型をつくった時代」だったと思います。自分を縛るいろんなルールに反発し、「それなら敵を知ってやろう。」と思い、法律を勉強することにしました。実際大学で法律を学んでみて、「法律は人を縛るものではなく、人を保護するものだ。人の幸せのために法律を役立てるものなのだ」と実感しました。その後、自分で簿記や会計学を勉強し、自分に一番ピッタリの分野はここだなと気付きますが、先に法学部に行っていて良かったと思います。一番先に会計学などと出会っていたら、ピッタリ過ぎて、落とし穴に落ちていたかも知れません。
余談になりますが、既に放映終了した人気ドラマ「マイボス、マイヒーロー」の高校生たちが面白かったです。娘と涙を流しながら(笑えて)、毎回楽しみにビデオに撮って見ていました。「勉強」「友情」「淡い恋愛」「将来の夢」「熱心な先生」「暖かい保健室」など、一昔前の高校生活を描き、それとヤクザのボスを絡めた娯楽性の高いドラマとなっていました。高校時代とは「心が動く」時代だなと思って見ていました。
とりとめもなくなってしまいました。
いろんな事件があり、履修不足問題も、いじめ自殺や竜巻の報道に取って代わられていますが、兎に角、「戸惑いの10月」は終わり、11月に入ったということです。
2006年10月5日
水曜日と土曜日は午前中の1時間を保全生態学や進化の本を娘と読むことになって、おもしろくなってきました。
「種」という言葉や「個体」「生物群」「生態系」など、いままで漠然と便利に使っていた言葉も学者はきちんと定義づけて、わかりやすく説明しています。始めて知る「生物多様性」という考え方も新鮮でなるほど・・・、と落ち着きます。人間のせいで、地球上の生き物たちが猛スピードで姿を消していく様子が例を挙げて説明してあるので、娘と二人で「これやばいよ、ここがポイントか、ははあ、手を入れなくなってもダメなのか・・・。」とおしゃべりしながら、読み進んでいます。勝手なことを素人が言っている感はありますが、娘は結構真剣に地球規模の絶滅劇を憂いています。特にまだはっきり記載された種でなく、その存在を知られないで絶滅していくという熱帯の生物には、大きな同情(?)を感ぜずにはいられません。
外来種が在来種を隅に追いやっていく様はタンポポを見てもあきらかなように、手遅れになるとわかります。高速道路から目にするセイダカアワダチソウの黄色も決して美しいとは感じません。どうすればいいのでしょう?テキストは人間の手が加わる前の自然に戻るのが一番とは考えません。人間と自然がほどよく調和して暮らしていた自然、自然の営みに暴力的に人間が介在し、方向を人間が決めてしまうことを戒めます。春には春の営み、田をおこし、稲を植え、夏には草取り、そして秋の収穫・・・。その後の田んぼの有りよう・・・・、などなどは人間が自然を相手にうまく調子を合わせて暮らして来た営みだったのでしょう。里山の自然です。
なんとなく、高度経済成長の前の時代かな?と昔の川の洗濯場の光景を思い出しています。天気の良い日に村の女性たちが川で洗濯をするために集まってきます。洗濯板と洗濯物をもって・・・。そして楽しくおしゃべりしながら、洗濯をしています。その傍らで幼児の私が水遊びをしている光景です。高度経済成長はその川を汚し、暗渠にしました。今は探してもその川のあとはなかなか見つかりません。
もう一度、あの川で洗濯してみたいなと、思いました。
2006年9月13日 11:06:34
人生最後の教育ママをやっています。
大学受験の娘の論文指導です。といっても、私も初めての経験なので、娘の技量とも考え合わせて、初めは作文指導という感じです。「文が浮かんでこないのよね。苦しいよ。友達はスラスラ書けるのに・・・」と娘。私は「お母さんは言いたいことばっかりで浮かんで浮かんで整理するのが大変・・・。」とちゃかします。
娘はこの一年父親から新聞のコラムを読むことを言い渡されて、毎日短文を読んでいます。何かの刺激になっているとは思いますが、世の中の流れにあまり疑問を感じない、興味といえば、スマップとダイエットという普通の高校生の娘にとっては、この短文の凝縮された内容も退屈に映るのでしょう。
この小論文は11月の推薦入試のためのもので、これで希望校に入れば、家族が大変楽にお正月を迎えられるということで、私も俄然力が入ります。論文指導は初めてでも、娘の性格は知り抜いています。
初めに次の3つの課題を出しました。①餃子の作り方を、なるべく初めての人にも分かるように文章で説明しなさい。②あなたの家の見取り図を玄関を入ってから、あなたの目が文章になるように、鮮やかに書きましょう。③今までの一番記憶に残るものを次の中から選んで書きましょう。・たのしかったこと・病気やケガ・おいしかったもの・・・・・(この課題は他の出題を忘れてしまいました。10くらいのあり)。
娘は餃子が18番です。特に包み方と焼き方は私より数段上手いです。得意分野の文章はスラスラ書けるらしく、あっという間に課題のプリントを埋め尽くしていました。
次の間取りの文は「読んでて全然画像が出てこないから、書き直し・・・」と私に突き返されて、ようやく2回目に合格となりました。続いて③の記憶に残るものシリーズで娘は「目の手術とそれにまつわる自分の見え方」を書き上げました。これは作文練習より、このことで思いがけず娘の心の葛藤をしることになり、私が驚きました。
どうも筆が進むらしく、兄との兄弟けんかの毎日から兄が大学に合格して一抹の寂しさを感じる下りまで、課題にはないテーマでしたが、答案用紙に書き殴っていました。
書くといろいろ刺激されるらしく、ウチに電子レンジがないこと、外国野菜を買わないこと、家で食べられる料理は外食しないこと、ディズニーランドに行かないこと・・・、などなどいままで感じていた「ウチのやり方」、がテーマとなりました。娘は「お母さん、冷凍食品と電子レンジを使わないということはすごいね。うちはすごいね。今わかったけど、うちは食を大切にする一家だったんだね」と勢いづいてしゃべりまくりました。私はそれを聞いてこそばゆくなりました。照れくさいので「でも、あなたは、お弁当の色が茶色ばっかり・・・と文句言っていたよ」といままでのうっぷんを晴らしました。話は便利さを追求すること、経済と環境、食糧自給率・・・・と発展しました。
一方、生物生産科学という分野での専門知識も同時に試される論文試験なので、書くことと並行して、知識を獲得、整理することも必要と考え、塾の科学教室の先生のアドバイスをもらいました。彼女は過去の出題傾向を丁寧に読み解いてくれて、しっかりした指針を示してくれました。おまけに今年の予想問題までついていたのは感激でした。彼女の紹介してくれた本を今少しずつ自分のものにしていっています。
このコラムで「子育て最終章は諭吉が飛んでいく」と報告しました。2年と6ヶ月前の話です。今度は本当の子育て最終章。この章は親も踏みしめて昇る階段みたいな気がします。最短距離で子どもを応援してやれる最終の章だからです。
2006年8月21日 15:37:08
ネットで新しょうがを買いました。
半分は梅酢に漬けて、もう半分は甘酢に漬けました。甘酢の方はごく薄で、梅酢の方はやや薄でスライスし、それぞれの液に静かに眠っています。田舎の母が作った梅酢しょうが(紅しょうが)は、友人の家に持参したとき絶讃されて嬉しかった記憶があります。今年作の梅干しはことのほか好評で、お代わりを要求する知人も居て、「今度はしょうがを漬けるからね」と気を良くして話していました。新しょうがはお彼岸までとネットで読んだので急いで注文しました。昨夜届いたので、すぐ梅酢に、そして今日は酢を購入してから、甘酢に漬け、そのツートンのしょうがを並べて悦にいっていました。もちろん、ここでも紹介とSDカードから読み取って、デジカメ画像を貼り付けようとしましたが、暑さかカードリーダーが我がパソコンに認識されず、画像を取り込むことは出来ませんでした。(あとで取り込めたので下に披露しました)
もう一つご報告。先日最終日の迫る川村美術館のクレー展に行ってきました。6月から開催されていましたが、油断していると「あれれっ、終わっちゃうよ・・・」とあせりました。千葉の母を連れて娘と4人で行きました。母は車いすでちょっと上部にある作品を見上げながら、一点一点を見ていました。常設展からロスコルームとまず定番コースを過ぎ、エレベーターで2階に行くと、たくさんのクレー作品が待っていました。最終日前日の土曜日のためか、人の入りは多くて、流れに逆らわないよう車いすを進めていきました。先日の大丸より作品の数は多く、見応えがあり、以前見た神奈川県立美術館のクレーの力が蘇ってきました。アートにメロメロになった福島はあいかわらず売店をうろうろして、「ロスコのカレンダー買おうか?」と言ってきました。私も気になっていたので7000円という値段をええいっと決断しました。折り悪く豪雨になったので、店員さんは丁寧に大きなカレンダーの段ボールにビニールをかけてくれました。
そして、昨日、ロスコのカレンダーに影響されたのか、「私たちの大切にしていた絵画もこっちに持ってこよう!」と思い立ち、隣の家から壁の絵画たちを引っ越しさせました。子どもの作品やもと造形教室の先生だった人の作品などをほこりを掃除しながら、新居に運びました。ほこりはすごかったですが、きれいになった作品はみれば見るほど傑作ぞろいで、親ばかと言われながら飾り続けた作品群でした。私たちの口癖は「すばらしい、なんてうちの子の作品は素晴らしいんだ!」でしたから・・・。
その掃除の途中に廃品回収の車が回ってきたので、テレビ3台、ラジカセ2台、パソコンのモニター1台を出してすっきりしました。頑張って絵画の引っ越しをして良かったと福島と話しました。ついでながら、今の新居に収まった福島常設展も披露させていただきます。私たち自慢の逸品ばかりです。
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ロスコのカレンダー | 娘作品 小学3年 | 息子作品 小学3年 |
息子作品 2歳 | もと造形教室の先生作品 |
2006年8月13日 13:52:42
和歌山県串本の潮岬へ行ってきました。タカラガイを拾うのが目的です。
8月9日の早朝には台風7号はまだ、静岡県の南沖にいました。早朝、4時前に果物、お握り、飲み物を満載したクーラーボックスを持って、娘と福島、3人で東京を出発しました。中央高速相模湖周辺が一番豪雨の激しい場所でした。ワイパーがフル稼働で視界を確保していました。そして山梨、長野と進んで愛知に入った辺りでは、青空になっていました。名古屋の東名阪道を走っている時はあまりの快晴に笑顔がこぼれていました。台風7号の雲とどこかですれ違って、晴天域に達した証拠でした。
初めての紀伊半島は明るい海の端の、かつ森の深い所でした。熊野街道を一路串本に走っていると、至る所に「熊野古道→」の標識があり、たくさんの古道のルートがあることが分かりました。日本一の降雨量を誇る尾鷲はずいぶん高度が高く、その森林の量にも圧倒されました。途中の道の駅で時間が惜しいので、お寿司のお弁当を買いました。車の中でお昼をすませ、すこしでも早く到着しようともくろみました。そのアジのお寿司やタコいなりの旨いこと旨いこと・・・・。この辺りの人はいつでもこんな旨いお寿司が食べられるのかと羨ましくなりました。努力の甲斐あって、3時過ぎには潮岬灯台に到着しました。
まずは灯台の下の磯を中心に貝殻を探しました。ただ、貝殻の海岸ではなく、ジャリの浜だったので、貝殻の数が非常に少なく、最初は戸惑いました。探し出してすぐ、福島が「あった、あった、これはなんだ?」叫ぶので言ってみると、キイロタカラガイとハナビラタカラガイでした。つぎに福島が見つけたはイボダカラでした。これは初めて見るので、娘も興奮していました。その後ジャリの下から、結構大降りのタカラガイが見つかり、夕方になって、浜を引き上げました。
予約していた民宿はすぐ近くにありました。泊まりは今日は私たち一組と聞いて、安心なような不安なような気持ちになりました。民宿の女将さんが「夕食の飲み物買ってきたか?」と尋ねるので「いいえ、何も買ってません」と答えると「何を何本飲む?これから買ってくるから・・・・」というので、「ビールを2本」というと、「瓶かえ?カンかえ?キリンがええかえ?アサヒかえ?お客さんにはこうてきてといつもいうとるけえ・・・」と高音で話されます。私たちは内心『こりぁ大変な民宿にきたな・・・・』と思いましたが、郷にいれば郷に従え・・・・と判断して、言われたとおり、民宿のやり方に適応しようとしました。
夕食は昼間民宿の息子さんが捕ったトコブシや、アジの刺身が絶品で、さっき買ってきてくれたビールのぬるさも気にならないくらいでした。その夜は早朝出発の疲れのせいか3人は9時に床につきました。朝6時に目覚めると裏の畑で女将さんが草原で何かやっていました。どうも畑のようで、ミズナスを収穫していたようです。独特の雰囲気のある方で非常に高音で早口な彼女のものいいには誰もノーといえない勢いがありました。これからも和歌山というと彼女のキャラクターを思い出しそうです。
そのユニークな女将さんは朝釣ったというカマスを煮付けて出してくれました。これがまた美味で。民宿の良さは料理の鮮度だなと改めて知りました。7時30分に宿を出発して、女将さんに貝殻の一番上がる浜に案内してもらいました。きのうの浜より、すこし西よりの浜でした。ここで私たち3人は小躍りしながら、南国のタカラガイを拾うことになるのです。初めはきのうの浜と大差ないほどの量でしたが、途中から台風後の打ち上げ品ラインを掘り返すようになると、俄然発見量が増してきました。それも新鮮で大きなタカラガイがゴロゴロでてきました。先日妹のつれあいからお土産でもらったヤクシマタカラガイも打ち上げられていました。ハナマルユキダが圧倒的に多く、ヤクシマダカラ、ハナビラ、キイロ・・・・と続きました。館山で多いメダカラやチャイロキヌタはありません。
今日の移動と太陽の日射を考え、9時30分には浜を後にしました。途中、サークルケイで板氷や飲み物を調達し、一路次の宿泊地愛知の茶臼山高原に向かいました。道中の「みかん」の看板に惹かれて「ハウスのみかん」を買って千葉に送ったり、尾鷲で回転寿司の昼食をとったり、行楽していきました。
茶臼山高原は1.200メートルの高原でもちろん涼しい風が吹いていました。そこでゆっくり休んで、帰りは中央道の甲府昭和で下り、フカワサ温泉につかり、「川」で昼食をとり、、塩山で桃を買って、大菩薩ラインで帰ってきました。
かくして、受験生の娘の希望で大幅な行程カットをした私たちの夏の大移動レジャーは走行距離1,400キロを記録して終わりとなりました。(本当は和歌山→兵庫→北陸・・・・と回る予定でした。)
2006年8月6日 18:55:12
森のプレイパーク、無事終了しました。今回は天候に恵まれ、夕立もなく、前半の夜空は今までの中で一番見事な星空だったようです。スタッフは夜空の魅力に勝てず、相当寝不足になっていました。夜の動物もたくさん観察されました。テンらしきものを見た人もいました。ただ、今年からサルも近くに出てきて、これは困ったなと思いました。油断すると狸も出てくるので、キャンプの生ゴミの管理をしっかりしないといけないな、と思いました。野生動物に安易にエサを与える行為は戒めたいと思っていましたから・・・。
参加者は例年より少し少なめでしたが、その分しっかり世話ができたと思います。下は小3から中1の子どもたちを8人の高校生と大人数名で見ました。大人の中には、山荘オープンから参加してくれていたスタッフで、昨年11月に天国に行ってしまったブチくんのお父さんも参加しました。「息子が10年以上続けて手伝っていたキャンプに自分も参加したい」と、早くから表明されていたからです。5日間も休みをとって、本当に来てくれました。
私は毎晩ブチくんのお父さんと彼の思いでを語りながら、お酒を飲んでいました。お父さんは自分の知らない息子の話に驚いたり、子どもたちの元気さを語ったり・・・・、話は尽きませんでした。ただ、最後には私もお父さんも悲しい気持ちになってしまい、困っていると、ノリトくんや他の人が話を別に繋いでくれて、助かりました。ブチくんの写真を持参したお父さんはきっとスタッフの動きの中にかつての息子の動きを想像して、山荘そのものに息子が息づいていると感じていらしたようです。こどもの元気さが大きな救いでした。
ブチくんのお父さんは「子どもってこんなだったんですね。元気だし、よく遊びますね。本当に楽しそうだ。そんなこと考えたら、自分には子ども時代はなかったみたいだ、生まれてすぐ白髪頭のおじいさんになったみたいだ・・・。」それを直接聞いたのは福島でしたが、「そんなことはなんでしょう、○ぶちさんも子どものころは遊んだでしょう?つりはしませんでしたか?虫取りはしましたか?」と尋ねたら、どんどん子ども時代にやったことが蘇ってきたようです。彼は浜から投げ釣りをした話やカブトムシやクワガタを捕った話を懐かしそうに語ってくれました。
彼は火付けに苦労する子どもたちを見かねて、ナタを磨いで薪を小さく刻んでくれました。火付けの極意を伝授してくれました。同じ種類の薪だと刻んだものから大きなモノは火がつきやすいと指導してくれました。朝早く起きて、子どもたちが火付けしやすいように周りの小枝や葉っぱをたくさん集めて、乾燥する場所にかためて置いてくれました。それを後で子どもたちが見つけて、火付けに利用していたようです。息子の代わりにキャンプを応援してあげようと、一生懸命やってくれたお父さんの気持ちの中で生活した5日間でした。
2006年7月24日 19:25:18
きのう、庭の草むしりと植木の散髪をしました。おとといは小平霊園でお墓の植木のチョキチョキをやって気持ちがよかったから、今度は家のチョキチョキと勢いをつけて始めました。
最初の1時間は娘が助っ人で、あとは2時間半は一人で黙々と作業をやっていました。我が家であるYFコーポは、1階がワンルームで3世帯、2階に私たちの専用スペースがあります。ワンルームの住人さんには管理費をいただいている関係でゴミ出しの世話もしますし、このように草引きもします。
庭といっても、2階への階段の付近とアパートの前面部分のみですが、これが結構な仕事なのです。まず母が好きで這わせているアイビーの整理、根が固くなったドクダミの草取り、毛虫のいそうな椿、料理に重宝なハランの群生、南天の木、アオキ、アジサイ、ムラサキシキブ、はびこったその他の雑草・・・・・。道行く人が声をかけて下さいます。日ごろ留守がちな私たちですので、珍しい光景のようです。隣の若奥さんが丁寧に挨拶に来て下さり、お互いの子どもたちの構成などを紹介しあいました。日ごろ声だけは聞こえているのですが、実際お話しするのは初めてでした。お向かいのおじいちゃんが、私が隣の空き地の草までひいているのを見て「私もよくここの草をひくのですよ。勝手なことだと、思いますが、草ぼうぼうになるのですね・・・。」私は内心、「あっ、やっぱりそうか、所有者が気を利かせて、業者を頼んでいるんじゃなかったな・・・」と一人思いました。
最後に玄関までのタイルをきれいにして、ちょっとやりすぎたかなと家に引き上げました。夕方の5時を回っていました。娘が「お風呂に入ったら・・・」と用意してくれたので、お言葉に甘えて、食事準備の前に入浴しました。そして、かねてからの約束の、広島風お好み焼きを仕上げて、楽しく夕食タイムになりました。
ところが、9時を過ぎた辺りから、異変が・・。腕が痛いようなだるいような、腰もギクシャクしてきました。「あ~、やっちまった~。休みながら、やらないで一気にやってしまった。日ごろ使わない筋肉を使って、なんとかという物質がでてきたな・・・。」と気づいた時はもう遅かったです。それから約2時間、昔覚えた体ほぐしをひたすらやりました。わかりやすく言うとストレッチです。五本指靴下をはいて、足指、手指から徐々に体をほぐしていきます、肩周り、腕周りは特にていねいに・・・・。それによって腰のギクシャクは治まりましたが、腕の重だるい感覚はどんどん増していきます。一番のピークは12時から2時半まででした。寝返りで筋肉に力をいれると痛さで目が覚めます。これが30分間隔で襲ってきます。「こんな時彼がいたら、マッサージしてもらうのにな」とサマースクールに行っている福島を思い出します。でも、この痛さにはマッサージもきかないか、とにかく時間をかけて悪い物質を排泄しないと治らないな・・・。じゃ、水をのんで外にだせばいい・・・。と起きるたびにお茶を飲んでまた、寝込んでいました。とうとう、3時半になり、4時半になり、6時になり、寝返りのたびに痛さに起こされていましたが、めでたく8時にはおおかたの痛みは去っていました。本当につらい一晩でした。
そして、今日。本当は隣の古い家の散髪を考えていましたが、とりやめました。命あってのモノダネ・・・・。もう一度同じ夜を過ごすのはまっぴらです。それに隣の植木や雑草量はざっと見積もっても4から5倍はあります。これはまた後日・・・。かくして、隣の古屋はどんどんお化け屋敷化していきますが、しばらく目をつぶって生活します。
2006年7月9日
今年は山は春が遅く、その上海岸ばかり行っていたので、いつのまにか山菜の季節は終わっていました。山森の情報があまり登場しないコラムになってしまいました。塾の日常は常勤講師が少なくなったので、毎年行っている個人面談や家庭訪問月間を親向け公開授業と父母会に切り替えて、希望者のみ個人面談や家庭訪問とさせてもらいました。そうすることによって、学年同士の保護者が知り合う機会もでき、いい決断だったと話しています。
今年を子育て最終の年にするべく、「母の料理」をせっせとつくっている毎日です。先日梅雨の合間に娘と庭の梅をとりました。全部で13キロを超える収穫で、ほとんどを梅ジュースに、4キロほどを梅干しにしました。梅ジュースは毎年つくっていますが、梅干しはほんとに久しぶりに漬けました。梅酢があがるか心配で毎日確認していました。3日目ですべての梅が水没したのを見て安心しました。そしておととい、赤ジソもプラスしました。時間をおって紅い色に変化する梅を眺めています。隣の古屋へ保存びんをとりに行った際、床下収納から、ずいぶん古い梅干しを見つけました。私たちが引っ越してきた17年前よりも古い計算になります。びんの外はほこりで汚れていますが、中身はきっちり梅干しなのです。面白いのでこちらの住居に持ってきました。だから居間には新旧の梅干しが仲良く並んでいます。
左が今年作、右が骨董級の古い梅干し |
2006年6月19日 9:01:09
今日は違和感の話・・・。
急にサッカー通が出現しています。誰もがサッカーの戦術を同じ単語で語り、夜のお店で知らない者同士サッカー観戦を通して盛り上がっている光景がテレビに映されたりします。これらに私は非常に違和感を覚えてならないのです。何か他のもので人と繋がれないのか・・・・と。
今はワールドカップサッカーの真っ最中です。4年前は日本戦の最中帰宅したら、ご近所4軒から、拍手の嵐が聞こえてきて、流石に感激した一夜がありましたが、今年の私は本当に「おいてきぼり」状態です。
ずっとサッカーファンでワールドカップを楽しみにしている人は実際にいるでしょう。でもテレビに映し出される絶叫し、騒いでいる人たちはなぜあんなに、サッカーにかこつけて異常に興奮し、行儀悪くなるのか・・・と思います。今朝、さいたまの会場で何万人かの人たちがすごいエネルギーを発しているのを見て、これはこれだけのエネルギーをここで発散しないと国民のストレスが社会保険庁や政府などに向かってはいけないから、国策としてサッカーを推しているのかと考えてしましました。昔から農民が一揆という形でエネルギーが集結することを恐れ、「祭り」がその代用とされていたといいます。祭りの期間、悪さも大目に見てもらえ、日常のうっぷんをはらし、また従順な生活にもどるというサイクルがあったといいます。
そうすると4年に1回のこのサッカー騒ぎは国民の憂さ晴らしとして機能しているのかと思います。
サッカー好きの福島は「国を代表して戦っているわけだよ。これは戦争なんだよ。でも本当の戦争するよりいいだろ。」といいます。でも、なんでサッカーなんだろう・・・。なんで戦争するものと前提があるのだろう・・・と考えてしまいます。
お笑いの人が神妙な顔をして「君が代」を歌っているのをみて、私の違和感はトップ状態になり、たまらないので、今朝は静かにタカラガイの貝細工をしました。
2006年6月3日 10:24:28
今夢中になっていることは、タカラガイを初めとする貝殻の収集です。5月は3回海岸に行きました。2回は館山であと1回は三浦半島の葉山です。どうも、先の合宿で貝の標本を作ってから、貝の種類が体にはいってしまったようなのです。今まで同じに見えていた貝殻が少しずつ違っていて、小さい貝ほど色やデザインが鮮やかであることに気づいてしまったのです。
福島はハクシャウズという巻き貝が好きになりました。私はマツバ貝の和の色調にやられています。娘はタカラガイ一本の王道をいっています。福島も私ももちろんタカラガイを中心に採取しますが、娘ほどすぐ名前が出てきません。娘は海岸でタカラガイしか拾わないので、目がタカラガイには鋭くなっているのでしょう。あちこちの貝に浮気をしている私たちは最後には娘に鑑定してもらいます。本を見ても、表面がこすれたりして判定できないグレイゾーンのタカラガイは別にして貯めていました。ところが先週、葉山の博物館で鑑定してもらう機会に恵まれました。親切な学芸員の方に心から感謝しました。全てに名前をつけていただいて、胸がスッーとしました。
夕食が終わって娘が部屋に引き上げた後、テレビをみるのも何だかな・・・という時は、収集した貝殻で小物を作ります。100円ショップで買ったネイルエナメルを塗ったら、貝殻の表面が見違えるほど光ります。ユザワヤで1メートル50円程度の紐を買い、ストラップやペンダントにして、周りの方に差し上げています。みなさん喜んで貰ってくれますが、実際使ってくれるかどうかは定かではありません。自己満足で配っています。
長くブランクを作ってしまった埋め合わせに下に作品や海岸の貝殻をお見せします。どうです?海岸を歩いてみたくなりませんか?
居間の標本ボード (蛇状がハクシャウズ) |
タカラガイのストラップ | 海岸でひろったもの |
アクリルボードの表札もどき | 乾かしているタカラガイ |
2006年5月18日 19:16:01
先日、松之山へ行きました。
春が遅く、5月になってやっと田おこしをしている田んぼがたくさんありました。雪をかき回して解かしていました。本当に今年は雪が深かったんだなと残雪の量で感じました。
松之山はやはり、いい場所でした。棚田といい、水辺といい、日本の原風景がそこにありました。もちろん、歯医者さんに来たような臭いの温泉も最高でした。
車の窓から見える松之山の風景でふと発見したことがありました。前出の花菱草(カルフォルニア・ポピー)が一本も見つからないのです。本当に一本もありません。それで思い当たることがあります。その花は外来種だから、日本各地に広がるには時間がかかるということです。東京、千葉、埼玉、群馬・・・・と今年ずいぶん確認しましたが、新潟の松之山まではやって来てないという事実に驚きました。西洋タンポポが日本中を席巻するのにどれくらいの年月を要したのか、定かでありませんが、じわじわとあのオレンジ色が日本中に広がていっているのかも知れません。松之山にあのオレンジは合うのかな・・・・・と思いながら、あまり風景が変わらないでほしいような気持ちが沸いてきて、花菱草は好きだけと、複雑な思いになりました。
松之山は何回も行きたくなる何かがある場所だと確認して帰ってきました。
2006年5月11日 20:49:00
毎年、「いいな」と思う花がありました。名前を知らないまま、いつも眺めていました。
それが昨年、小平の事務所の前の植え込みに咲いていたので、枯れたとき種を取り、保存しました。図鑑で調べたら花菱草(はなびしそう)、別名カリフォルニア・ポピーだと分かりました。図鑑にあった薪時を守って春前に種を蒔きました。事務所前にも雑草をぬいて花菱草の種を蒔きました。でも、いっこうに芽が出ないので、がっかりしていました。4月も半ばには埼玉や千葉の幹線道路の中央分離帯では咲き乱れているのです。「あ~あ、うちのはだめなんだ・・・」と諦めていました。そしたら今日小平の事務所の植え込みにも小さい花菱草が咲いているのを発見。うれしくて、うれしくて。
私は本物のポピーは苦手です。なんだかくしゃみが出そうな感じになるし、全然きれいと思わないのです。でもこの花菱草のオレンジにすごく惹かれるので。
ここまで書くとみなさん、どんな花か気になると思いますので、昨年の画像を右に紹介しますね。
2006年5月5日 7:41:39
連休も半ばを過ぎました。
我が家の休日は1日・2日の館山行きでした。もちろん、富崎館にまたお世話になりました。今度は娘を連れて・・・・。
1日は5時30分に家を出発して、首都高・アクアライン、館山道を乗り継いで、9時過ぎにはもう根本海岸で貝殻を拾っていました。お昼は富寿司で地物寿司をいただき、沖の島の磯に直行。あまりのしけに恐れをなし、風向きの違う坂田海岸へ移動。
たっぷり遊んで夕方には富崎館のトロン温泉につかっていました。夕食の舟盛りを断腸の思いで完食できすに残し、読書、温泉三昧の夜を過ごし、翌朝はまた、根本海岸へ。帰りの三芳では、小川の小魚捕りをねらい、上流を目指しましたが、雨が降ってきて断念。
その後、3日4日はフクシマは隣の家の片づけ、衣類の管理。私は採ってきた貝殻を洗い、乾かして、分類しました。娘と2人でタカラガイの分類をして、14種類見分けられました。快挙です。いつも安藤さんにおんぶにだっこで「これはメダカラ、ハツユキダ、オミナエシ・・・」とその都度教えて貰っていたのですが、膨大な量を分類したら、違いがよくわかるようになりました。ポイントは点と裏の色だと思い至りました。娘は4日には小川のリベンジでフクシマと千川や落合川に行き、稚魚とエビを捕ってきました。受験勉強の合間に川は絶好の息抜きのようです。我が家の居間には淡水の水槽が復活し、古い濾過器に新しい部品を入れ替えて稼働しています。昔からのシロメダカは1匹健在です。
今日は小平の事務所に出勤ですが、また明日から家の片づけ仕事が待っています。フクシマは衣類は全部、引っ越しを終了。あとは気の遠くなる書籍と塾の教材のみが隣家に眠っています。これが片づくのはいつの日か・・・・。
(写真は布良港に近い根本海岸の貝殻。毎日新しいタカラガイが打ち上げられる)
2006年4月21日 21:56:56
また、関公園を歩き始めました。天気のいい、朝、少し早めに家を出て、リュックをしょって両手をあけて、歩いています。
土の上を選んで公園まで歩き、公園では時間をかけて、一周します。途中、木の名前を確認したり、野鳥を眺めたり、ジョギングの人を観察したり、たっぷり朝のひとときを楽しんで、出勤します。
さくらはおわりましたが、いろんな芽吹きの季節です。
我が家の小さな庭にたくさんの青じそが発芽し、一気に育っています。あまり多いので、職場の玄関の脇の植え込みに移植しました。毎日、水をやり、虫に食われないかと点検しています。本当はもっと育ってからの方がいいのかもしれませんが、子葉が可愛いのでいじってしまいました。
毎週の源泉巡りは密かに実行しています。あまり人に言うとあきれられるので、発言は控えています。経費節減のおり、ナビを駆使して一般道で行っています。今は埼玉方面を攻略中です。
(写真は関公園のプレート)
2006年4月7日 13:14:41
磯のおもしろさを再確認した春合宿でした。完璧に引いた潮だまりが私たちを待っていてくれました。
一つのたまりで十分一日遊べる生物豊富な沖の島でした。中学生と小学生が交代で磯とビーチコーミングを楽しみましたが、私は撮影班と称して、ずっと磯で過ごしました。フクセンはその磯の引き方を見て、「これで春合宿、成功だ!」と思ったと言います。
ひじきとわかめが太陽にさらされて、アートになっていました。こんなに磯が楽しいのは久々です。3年前の走水以上かもしれません。みんなそれぞれの獲物を水族館と呼ぶ水槽に入れに来ました。こうしてみんなに獲物を披露し、次の生物に向かっていました。イソスジエビを始め、可愛い動きのエビがたくさん、網にかかり、右手を太くした、シオマネキのエビ版も登場しました。
春合宿はこの後、貝の標本づくり、ビーチグラスづくり、干物、塩づくり、海ホタルの観察、つり体験と海体験が目白押しで、参加した50名は三日間、館山のきれいな海を堪能しました。宿の富崎館も最高で、いろんな場面で協力してもらい、来年の企画も考えながら、宿の方々とたくさん話しました。(下は引いた磯と海草のアート)
2006年3月30日 12:26:42
今年は梅と桜とコブシが一緒に咲いています。昨年ご紹介した武蔵野北高校近くの紅白の桃を見ずして、春が終わるのではと懸念しています。ずっと助成金の後始末で家でこもって仕事する日が続いていたからです。今年度は新しい助成事業があったので、慣れない書類作りに時間をとられました。それも昨日やっと終了。新座の郵便局で書留を出して、小川の農産物→酒造元→京ケ島温泉と、きままなドライブに出かけました。小川の酒造元で福島はお世話になった人に差し上げる日本酒を2本買い、そこの若者に紹介された「地元の旨い店」に二人で行きました。その店は構えも地味でいつも気づかず通り過ぎていた店でした。厨房から板さんらしき話し声が聞こえてきたので、「うう、ここは期待できる」と話していました。予想通り、地元値段で本格的な和食を堪能することができました。とくにホッケの焼き具合が板さんって感じで感心しました。焼きすぎない技術がありました。そこで腹ごしらえをして、高崎の温泉へ直行した私たちは渋川のスカイテルメに似た、石油臭のお湯を楽しみました。露天のみ源泉かけ流しなので、いつも内湯に入らず、外に出て時間を過ごします。昨日は強風だったので、頭のタオルを押さえて、入浴していました。その強風のためかいつも熱い岩湯も、非常にぬるく、がっかりしていた山下ですが、入浴後の汗の量がハンパじゃなく、ぬる湯の効力にびっくりしました。
あさってから、春合宿です。
館山に塾生ほぼ全員を連れて行きます。海で一日いろんな体験をして楽しみたいと思います。つり、ひものづくり、塩づくり・・・・。シーグラスづくりに海ホタルの発光実験・・・・。若いご主人が勢力的にお手伝いをして下さるので、今までにない海の経験と出会えそうな気がします。もちろん、ビーチコーミングでおなじみのA藤さんもおつきあい下さいます。また、彼の熱い語りがきけると思うと楽しみです。
2006年3月10日 12:36:12
遅ればせながら、我が愛車にもカーナビを搭載しました。
理由は地図と信号下の交差点名が読めなくなってきたからです。夕方近くになって、薄暗い中、車中の地図も読みにくいし、交差点名も確認できなくて、往生したことがありました。その時「とうとう、われわれもナビかね?」と二人で話したのです。
ナビを搭載するということはオーディオもゴソッと取り替えることになります。ちっともったいない感じがしましたが、思い切って交換しました。中古のCD,MDオーディオは我が家に眠っています。後々誰か、使うかなと思ってとってあります。
さて、ナビの感想は二つです。
一つは便利さ。電話番号などで検索できるので、今までいきたかったけど、ローカルすぎて見つけられないお店にピンポイントでいけること・・・。もう一つは危険性。いらない情報が多すぎて、大切な情報がおろそかになることです。
こっちは困った現象です。一番大切な「今、目の前にある情報・・・。」たとえば、歩行者、路面の乾き具合、逆光の加減、風、近づく他車・・・などなど。ドライバーにとって、いつも肌で感じておかなくてはならない情報が、ナビの持つ多数の情報とごちゃ混ぜになるのです。高速のソバの公園は○○公園と言うのだな・・・。この辺りは和食の店がおおいな・・・。この辺りは全然コンビニがないな・・・、という手の情報です。ナビの世界に入ると本当に起こっている、「今の目の前の情報」が本当におろそかになるのです。さながら、メールでは話ができるが会って話すということがなくなってしまった、人間関係のようです。
それから、気づいたことですが、おまけとして。地図の持っている情報がナビ以上であること。特に広域移動の場合、広域でかつ詳細な表示は地図に勝るものは無いことを知りました。だから、地図好きの私はナビがあっても、地図を持参して行きたいと思います。
便利さもほどほどに・・・、を肝に銘じつつ、最強アイテムを駆使して知らない土地に出かけていきたいと思います。
2006年3月3日 12:38:00
今朝の話。山森とは全然関係ありませんが、山下も歩けば、事故にあたるという話です。
いつのも道を歩いていたとき、もう少しでバス通りに出るという20m手前で前方で大きな音がしました。
はっと見ると、スローモーションで自転車と人間が車に引っかけられて、私の視野の左から右に流れていきました。人間は肩の辺りを相当、車体にアタックされている感じで、一瞬のうちに美容院のビルの陰になりました。身体は逆さまになっていたようでした。
私は急いで前進して被害者を捜しました。対向車に被害を受けてないといいがな・・・、見るのが怖いな・・・と小走りになりました。すると、道路の脇で自転車を必死で起こす男の子がいるのです。顔面は蒼白、ぶるぶる震えて、声がありません。ただ、外傷がなく、肩のあたりがゆがんでいる程度で立っているのです。「この子は運がいいや」と思って声をかけました。「立って平気?病院行った方がいいよ。」すると小太りの年配の男性が近づいてきて、その子に話しかけて、しきりに携帯電話をいじっているのです。私は当事者同士が名乗り合っているのかと、思って行きすぎようとしました。
すると、自転車をおこした男の子がすっと自転車で立ち去ろうとするのです。あわてた私は「だめだよ、そのままじゃ、いろいろ伝えってから、病院でみてもらわないと、名前や連絡先を聞いたの?」と男の子に聞きましたが、彼はどんどん離れていきます。運転していたその年輩の男性は「いいから、高校の名前わかっているから・・・」とよけいなことを言うなとばかりに私をにらみます。私はどこの高校と訊ねました。そばで見ていた通りすがりの男性も「このままじゃだめ、きちんとしなきゃ・・」と男の子と運転していた男性に伝えましたが、男の子は立ち去り、もう一人は「大丈夫、高校に連絡するから・・・」と私たちを取り合いません。
私とその通りすがりの男性は憮然として、その後どうしたものかと思案することになりました。でも被害者もその場にいないし、出勤の時間もあるので、むちゃくちゃ心を残しながら、「高校に連絡する」という言葉だけを頼りに、駅のホームに向かいました。高校に急いだ彼を追いかけたせいで、現場から少し離れ、そこからは事故車のナンバーを確認するのは遠かったので、そのまま駅に行ってしまったことを電車に乗ってから、深く悔やむことになりました。
4つ先の目的の駅で降りたときには、この悔やむ気持ちが増大して、即、仕事場のパソコンを立ち上げて、男性が告げた都立高校の電話番号をネットで調べ、すぐ電話しました。電話にでた職員は「すぐ生徒で事故に遭った子がいるか」調べるといっていました。どうもどこからも事故の一報は入ってないらしいです。そして当時の状況をたくさん質問されました。車は黒や白やシルパーなどのトーンの色ではなく、黄土色か茶色か、または中間的な暖色系。セダンじゃなく、たぶんステーションワゴン系。運転の男性は50から60くらいの年配。 短躯小太り。緑色の作業服(きちんとした仕事着)を着ていました。職員の方いわく、「生徒は学年末試験で急いで登校したんでしょうね・・」。
高校に連絡したのはすでに事故から30分ちかく経過の8時55分だったので、どれだけ役にたつか不明でしたが、いちおう山下の連絡先を告げて電話を切りました。
いろんな書類仕事に追われ、いつも何か考えごとをして過ごしています。昨日も生まれて初めて電車に折りたたみ笠を忘れました。今朝の事故の際も書類のことを考えて歩いていました。今から思うと、もっと大人として適切な動きがあったはず。
これが悪質な当て逃げ事件にならないことを祈りつつ。子どもに被害に遭ったときの心得を伝えておく重要性を感じながら、コラムに記録させていただきます。
このケースの驚きは、高校生が自分の身体より試験に遅れることを優先したこと。いきなりな事故で自分を失っていたとしても、あまりにも危険な行為です。頭をうっている可能性もありますから。そして最大の驚きはドライバーが本人の言葉をいいことにして、救急車も警察も呼ぶことなく、きちんと処理しようと助言するまわりを無視して、できることなら、何も無かったことにすませようと行動したことです。前者はこれからの課題です。後者は運転者として責任を問われなければならない行為だと思います。
自転車通学の子どもを持つ母親として、また一人の大人として、この出来事は十分、私の血圧を上昇させてくれそうだったので、早速安定剤を飲んで、再び書類仕事に戻りました。
2006年2月17日 12:38:11
家族考。
以前、家族とはそのメンバーの中に保護を必要とするモノを抱えながら、力を合わせて一緒に生きていく単位・・・・と規定しました。構成員が全員保護を必要としなくなったら、解散する自由もある・・・・、と。
保護を必要とするとは必ずしも、年少のモノとは限らず、老親も入ります。そうなるとなかなか家族は解散することは難しく、一時的には可能でも、また集合することもあると思い至りました。親は最初は子どもを保護し、成長し一時家族は解散するが、再び立場が逆転して保護されつつ、一緒に生きていく・・・・・これが戦前までの日本だったのでしょう。ただ、現在は認知症の進行具合などで家族の保護だけではサポート仕切れないケースが多く、病院や療養施設でお世話になることになります。それでも家族は時間的にも経済的にも多大の負担を担うことには変わりはありません。
家族も発生、分散、集合などを繰り返し、種としての人間は地球上でいつの世も子孫を繋いで生き続けて行くのです。娘は「母親」像を思春期は否定的に眺めつつ、子を授かってはその存在の偉大さ・有り難さを身にしみて実感し、「安心して子どもを託す」存在として格付けは更にアップするのです。同じように子どもをあやし、同じように声をかけ、同じような絵本を与え、同じように叱っていくのでしょう。私は子育ての初期には埋もれていた幼児の時の記憶がたくさん蘇ってきて、驚くことがありました。母の瞳の中に自分の姿をみて安心していた幼児の記憶です。母の視線がもう一人の存在(妹)に移るようになると、その瞳はダイレクトに私だけの映すことはなくなり、そのときの映像は寂しさを伴って蘇ってきました。子を授からなかったら、この記憶は私のずっと奥で一生眠り続けていたことでしょう。母に保護され、母を保護する・・・・・これがワンセットかと思います。私の実家の母はこの保護の部分を早々に切り上げて、天国に行ってしまいましたが、精一杯一緒に遊んだ記憶がたくさん、残りました。彼女の人生、楽しかったろうな・・・と思います。
2006年1月29日 21:22:37
塾の新規募集が始まりました。いつもこの時期、ナーバスになっている塾事情ですが、今年は先日の塾通信でお知らせしたように、塾を巣立つメンバーが複数いることで、最後のライブなどあわただしく過ぎて行きそうです。
本日、つぎはぎだらけながら、2006年度の募集要項などをUPしました。募集用に書き上げた文章は引き続き、のりとくんが担当しました。内輪ながら、方向のはっきりした具体性のある文章だと思っています。ご一読いただけたら幸いです。ここ(現在はリンク切れです)をクリックしていただくと飛べるようにしてあります。来年度はフクセン・のりとくんができる範囲で授業展開をしようと早いうちに結論を出していたので、その他の講師は少しずつ専門性を活かして二人をサポートする感じになります。募集要項を見て頂くと若干クラスの数が減っているのがわかります。フクセンは一番の楽しみの土曜日の「飛ぶ教室」を閉じる決断をするとき、「来年できなくても、また再会できるし、目の前のやることをこなしてからだな。」と独り言を言っていました。
最近の山森話について、「ぼやきすぎ・・」「嫌み言い過ぎ・・・」との感想を各所からいただき、反省しております。もっと爽やかな話題を。
やまない雨はない、あけない夜もない、ゆるまない寒さもありません。大寒を過ぎ、日差しは確実に明るくなっています。これからはろうばい、梅・・・・・と春の使者がやってきます。梅派の私たちは始動準備完了です。 それからパウル・クレー展も2月からスタートです。6月には川村美術館にも移動するという。マーク・ロスコとクレーにダブルで会いに行くのはやりすぎでしょうか?
2006年1月25日 19:12:16
パソコンその後。
我がノートパソコンは調子よく仕事をこなしています。ROGANでしょぼくなった私の視力のために、フォントを大きくしようと「ユーザー補助」に行き、ハイコントラストでフォントを大きくという設定にしました。前もそうやって、タスクバーなどのアイコンやいろんな表示を大きくした記憶があります。そうしたら、がが~ん。インターネットの壁紙が表示されない、エクセルの色つけが表示されない・・・あのマシンの瑕疵だと思った現象がでてきたのです。ハイコントラストのチェックをはずすと元通り・・・・・。ふぁんふぁんふぁんふぁんふぁふぁふぁふぁふぁ~ん・・・・・・・・。
私はへなへな拍子抜けしてしまいました。最初のSOSメールの時に、「コンパネのユーザー補助のハイコントラストのチェックをはずして、確認して下さい」といってくれれば、こんなに2ヶ月近く、煩うこともなかったのです。そう考えると、ユーザーのメールを見てないで「あちこち行って、確認しろ」と型どおりのメールを送信していることが考えられます。私はまじめにいちいち指示通りにやっていのですが・・・。アホらし・・・・。ユーザー不在のサポートマニュアルだったことがここで判明。
ここでしつこく報告するのはこのコラムを読んで「あ~あ、コンパネのユーザー補助・・・・・」と反射的に気づいた人が歯がゆい思いをしてたら申し訳ないので・・・・。そして英語でハードを取り外せという指示に怒っていた下りに対しても、「どこかに『IN JAPANESE』のチェックがある・・・・・」と歯がゆく思っていらっしゃる方もいると今は思います。ただ、当時の山下のスキルは英語を読んでやるしかない・・・と本気で思っていたことは事実です。
最後に○ELLさん、ありがとう。
こんなにパソコンの世界深く、山下を誘って下さって・・・・。
あなたのサポートがしっかりしていたら、私はなんでも人に任せる他力本願のユーザーのままだったことでしょう。他力本願、・・・・・反対語は・・・自力更生・・・・・・。ああっ、自力更生、って中国人の好きな言葉です。きっと、中国の人は『他力本願の日本人』を従軍慰安婦以上に嫌っているのかもしれませんね。
本日はサクサクの我がノートで塾通信の編集を午前中に終えました。正月のパーティーの画像が欲しいと思い、デジタルビデオのミニDVDをパソコンに入れたら、画像も取り出せて編集が楽楽でき、技術の進歩に脳神経が揺れました。「わっ、こんな事もできるの???」
また、塾に行かないで仕事をする私のもとへ、塾のシマちゃんから添付メールで自由にファイルが送られてくる状況をみて、また脳が揺れました。あまり、便利すぎて、脳がぐらぐらになりました。冗談ですが、便利が私をどんどん追い越して行ってしまいそうで怖いくらいです。
キーボード操作に一切近づかない福島や携帯電話を絶対持たないのりとくんの英明さがボデイーを襲ってきました。うっ、便利って結構痛いかも。
2006年1月22日 15:41:22
この3ヶ月の我がノートパソコン事情を報告します。山や森の話が書けない季節は山下のぼやき話になってすみません。おつきあいください。
昨年の10月中旬に○ELLのノートパソコンを注文しました。下旬に商品到着。早速、助成金の実績報告書を新しいパソコンでサクサク作りました。いままでのWINDOWS95のメビウスも離れがたい味がありましたが、10年選手はやはり凍ることが頻繁だったので、思い切って新しいノートに・・・・と決心したのでした。12月初旬にはほとんどの書類ができあがり、喜んでいました。これを機会にADSLにと、手続きを待っていました。そこでまず一つめの事故。○iftyの振り込み用紙が郵送されないので、電話で催促して結局郵便事故で届かず、ADSL回線開通が12月になってしまいました。ワイヤレス接続も含めて業者さんがやってくれて、晴れて12月3日にはインターネットに接続できました。それまでに自分でダイヤルアップ接続はやっていましたが、ゆっくりインターネットをしたのは初でした。こういう事情で新品のマシンの瑕疵(かし)に気づくのが遅れました。
インターネットでどのサイトへ行っても壁紙が表示されないのです。塾のホームページに行ったとき、すぐ異常に気づきました。重ねて数日まえから気づいていたことですが、エクセルの色表示がないのでした。ガロアから実績報告を添付して送ってきたとき、「訂正箇所を赤字で表示したよ・・」というメールをもらったとき、あれっ?と思ったのです。
早速サポートサービスに電話しましたが、なかなか繋がらないので、メールで相談しました。その後メールによる確認作業に年末年始は翻弄されました。BIOSの画面やその他見たこともない画面に行って、言われた通り確認作業をして報告しました。結局、何の改善も見られず、引き取り修理という運びとなりました。佐川急便のおじさんがこわごわ梱包して引き取ってくれました。
そして、今月13日、介護事務所で仕事する山下の携帯電話へ中国の工場から連絡がありました。「◎◎作業を行いましたが、あなたのOSの問題で◎◎なので、◎◎しますか、◎◎・・・・」その中国の女性の日本語が◎◎の部分が聞き取れないのです。何度も聞き返しますが、結局理解できなくて、「もう少し日本語のわかる人を出してください」という私の申し出に中国女性はプライドを傷つけられたのか、なかなか聞き入れてくれません。あげくに「電話がわからないのなら、メールで通信しましょう」と言い出すのです。これには私もキレて「パソコンを預けている今はネットもメールもできないでしょ」と言い返しました。私の強い口調に渋々他の担当者と交代してくれました。次に登場した女性はさっきの女性よりは少しだけ、理解しやすい日本語を話しましたが、それでも事情を把握するには至りませんでした。最後に夕方の6時以降に再び同じ携帯電話に日本の担当者から連絡をもらえるように約束して電話を切りました。
早々に帰宅して、工場からの電話を待ちましたが、いっこうに連絡がありません。仕方なく日本のサポートセンターに電話して初めから事の顛末を話しました。ここでは日本人の方が普通に日本語で対応してくれたので、まずは安心しました。結局、中国工場の事情は日本では直接わからず、6時以降の連絡の約束もなんともいえないというです。私は「じゃ、改めて私の修理への意思表示をしますので、あなたが責任を持って中国工場へ連絡をしてください。私はもう中国工場とはコンタクトをとりません。電話が今後かかってきても日本からの指示を確認してといいます」と条件をつけて会話を進めました。
すったもんだのあげく、先週の木曜日に我がノートパソコンは海を越えて帰還しました。また、初めから設定、インストール、保存したファイル再現などで金曜日は休みをとって、それにかかりました。残念ながらワイヤレス接続は私には荷が重いので、急ぎの仕事を終えたら、マニュアルを見ながら時間をかけて設定をやり直すことにしました。
かくして「買い物するなら国産品」という確固たる信念が私の中に残りました。最後のメールで「心配なら、ハードを取り外せ。はずし方は次のサイトを参照して」という指示がありました。移送の段階でのハードの損傷の責を負わないという下りの一部です。私はそのサイトに行ってみました。壁紙は表示されませんが、ネットはできたからです。そのサイトは図解いりながら全て英語でした。私はプリントアウトしてハードの取り外しに挑戦しようとしましたが、CAUTION!(警告とか用心の意味)の連続に恐れをなして諦めました。こういう段階から外国製品のつれない顔はあったのでした。野菜も肉も果物も国産主義の私はもっと早く気づくべきでした。買い物するなら国産品。クレームや相談や確認が日本語でできないなんて、なんて愚かな消費行動をしてしまったのだろう・・・・・。いまも悔やんでいます。これから、もしパソコンなどの大きな買い物をする方へ。買い物するなら国産品。これを伝えていこうと思っています。
・・・・ええっ、外国で部品をつくって組み立てていても日本の企業名なら国産品なのかよ・・・、という声が聞こえます。「はい、それでも国産品」と私は言いたいと思います。だって、中国の工場から片言の日本語で難解な内容を確認されることは決してないですから・・・。しつこいようですが、買い物するなら国産品。
2006年1月17日 13:08:23
通勤中の電車の話・・・・。
最寄り駅より一緒に年配の男性とすいた電車に乗り込みした。彼は私の目の前に座って、すぐ独り言を言い始めました。それは会話形式の独り言で、あるときは楽しげに、またある時は深刻そうに・・・。一駅ぐらいで独り言に気づいた私はしばらく眺めていました。次の駅で高校生の女の子が乗ってきて、彼の隣に座りました。彼女は彼の独り言に気づく風もなく、しばらくしたら、携帯電話で誰かと小さく話し始めました。その話は延々と続いて結局、隣のおじさんの独り言にも気づくことはありませんでした。
その二人の光景をみて、ぞっとしました。この車両に乗っている人は3人。独り言の男性と携帯電話の高校生と私です。二人はココに存在しているというより、どこか違う世界で生きている、だから電車に存在しているのは私一人だな・・・ということです。何でぞっとしたかは分かりませんが、独り言の彼を気持ち悪く思うより、携帯電話で話す彼女の行為を不快に思うより、この人間関係の希薄さに恐れを感じたというのが近いかもしれません。二人に存在を感知してもらえない私の居場所のなさに不安を感じたのでしょうか。
昔の人は袖触れ合うも多少の縁・・・・・といって、通り過ぎ、すれ違うだけの関係の人とも縁を感じ、相手の居場所を作って接したと思います。今は目の前にいる人より、どこか空想の世界だったり、電波の果ての人との関係が深く存在する時代なのだな・・・と思いました。
こういう現象は何だろう・・・、私達のコミュニケーションって一体どうなって行くんだろう・・・、と考えました。
最近、ある企画を巡って若い人とのコミュニケーションの困難を痛感した山下です。原因の多くはメールという存在でした。
最後になって分かったことは、その若い人のメールと私のメールとはコミュニケーション場面での役割が違うということです。私はメールに自分の考えや感情表現を乗せて送信していました。その若い人はメールはあくまでも駅の伝言板のような無個性な記号のようなものにとらえていました。だから、どんなに山下の考えを送信しても自分さえ理解してればOKと感じて、最後にはなしのつぶてとなって、時間が過ぎて行きました。疑問を提示した私の言葉はその都度、彼の認識から消えて、忘れ去られていました。
コミュニケーションの手段としてはやはり、会って話すのが一番。その次がきちんと書いた手紙。その次は電話。そして最後がメールとなります。メールはあくまでも簡便な通信方法でそれ以外の手段とは比べようもないくらい理解を深めるのは困難だと思います。
私はこれからもメールを使って便利な通信をやっていこうとは思いますが、込み入った話になると、会って話すとういう一番確かな方法でコミュニケーションをとろうと思っています。特に若い人とは・・・。そして、「今、目の前の人と生きている」という実感がこれ以上消失しないように願っています。
そのために言葉がほしいです。前出の私がぞっとした光景をなんと表現しようかと考えました。現実・非現実、即時性・非即時性、閉じた世界・開かれた世界、アナログ・デジタル・・・・。どれもしっくり行きません。まず言葉から探してみようかと思って落ち着きました。
2006年1月12日 13:42:40
今年もあっという間に12日も過ぎてしまいました。今年のお正月は田舎から妹家族がやってきたので、2日には群馬県のお寺へ初詣に出かけました。そのお寺の招き猫を買って事務所に置いてから、商売がうまく回るようになったと妹夫婦は感じているので、お礼もかねて初詣に行きました。お寺には油をかける大黒さんや願いがかなうかどうか占うお地蔵さんも鎮座されており、パンフレットの内容も多岐に富みます。願かけがテーマのお寺です。そこで妹たちは招き猫を再度購入しようとしましたが、製造元がどうなったのか不明ながら、手に入らなくなった・・・・という話でした。これぞ貴重な招き猫になってしまったわけです。
その後、受験生との冬期講習に4日から突入し、先日はのりとくんと温子さんの祝賀パーティーがあったので、ばたばたと松の内は過ぎていきました。先日のパーティーは本当に大盛況で、持ち寄りの料理もたくさん集まり、こもれびホール一杯にお祝いムードが溢れていました。遠方よりお客さんも来てくださり、本人たちは大感激だった様子です。
お客さんへの招待状の発送から、当日の運営まで実行委員会形式でやったので、100名を超える規模にもかかわらず、ゆったりと準備することができました。音響や照明も本格的で、参加したそれぞれが楽しむことができました。こういう企画も楽しいなと感じた山下でした。料理、お酒、アトラクション、音楽、照明、花や看板・・・・・・。パーティーもそれぞれの分野で工夫をこらした総合芸術だと思いました。
2008年の30周年には歴代の卒業生を集めて、こういう企画を打つのもどうかと本気で考えました。